とがったいわ

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個展「とがったいわ」終了しました。

昨日、個展「とがったいわ」が最終日を迎えました。

暦の上では春も間もなく終わろうとしていますが、寒い日が続いていた中、お越し下さった皆様、ありがとうございました。

ギャラリー門馬は山の中腹にあり、最終日の前日まで庭に最後の雪が頑張っていましたが、その翌日には、もう見えない形になっていました。

「落花生の感触」という描いた落花生の総重量が100gになるまで左手につまんだ落花生を描く作品が、今回展示した中で一番古い作品になります。

この作品を制作した時点では、まだ「とがったいわーエエンイワー恵庭岳」のモチーフは私の中になかったので、今回の展示の中にこの作品を入れるかどうかについては迷うところもありました。

けれど、この作品を発表したときに、一枚一枚の落花生の絵に名前を付けてくれた女の子が、ずいぶん大きくなって昨日展示にきてくれて、やはり展示してよかったと思いました。この作品は形態があることによって、関係が起き上がることを最初に強く意識した作品でもあったからです。

「隣り合わせの二つの独房にいる囚人が壁を叩いて合図をする。壁はふたりを隔てると同時に、意思疎通を可能にもする。わたしたちと神も同じだ。いっさいの隔たりは絆である。」

と、この言葉はシモーヌ・ヴェイユの言葉なので、この中の「神」については私は語れません。作品をつくる動機を皆様に尋ねられる、その度にある程度一貫性はあるもののもやもやとしたその場なりの答えを出すのですが、今回は、ああ、この言葉だなと思ったりしました。

「とびらをひらく」というアボカドを分割する映像作品に関しては、一個の果実という充足した状態を分割することで、手の中で「私」と「あなた」にすることが一つの目的でした。アボカドを半分に割ると必ずどちらかに種が行き、どちらかが種のないくぼんだ形になります。どちらが私でもよいのですが、出っ張った方はくぼんだ方によって自分の形を知り、くぼんだ方は出っ張った方によって自分の形を知る、分たれることによってもう一度合わさることができる、しかし、同一の物にはもうなれない、なにかそういったことが起きていると感じました。

起きざまや寝入りばな、そうでなくとも、生産的なことをする気にもならず、布団の中でぼんやりしているとき、世界と自分とのコントラストが低くなって、自分が混じりあう粒の一つ、ピクセルの一つのように感じることが度々ありました。それでも自分が布団を押してそこに形態ができていること、何かしらの意識の寄せ集めによって、室内の模様の取り合わせがあること、といった力が働いていることを認識して我(秩序の世界)にかえる、そのことと、当時、支笏湖周辺の地形の歴史を調べていたときにでてきた、山を目印にして家に帰る、という行為のイメージが重ねて感じられた、布団山に関してはそのような時期の経験が強く影響しています。

私自身は、どこかにいる本当のあなたからは壁で隔てられていると感じます。でも時々壁のむこうからかすかなノックがきこえたと感じることがあります。自分にとって作品をつくることは、向こう側にいるのが本当のあなたである保証はなく、また、ノックではなく、ただちょっと肘がぶつかっただけかもしれませんが、耳を壁に集中させて、ノックがきこえるように返すことかもとおもいます。

結局、リアルには触れられない、感じられるのはリアリティーだけっていう話なだけなのかもですけど。

なにか、画像もないのに語りすぎた感もありますが、今回の展示では、ああ、そうだったそうだった、とそのノックの音を思い出す瞬間が何度かありました(ちょっと回顧展みたいになっちゃったけど得る物はあった)。このような場所を提供してくれたギャラリー門馬さんと、お越し下さった皆様重ねて、本当にありがとうございました。

展示写真は追々、ブログにアップしていこうと思います。
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by pointed-rock | 2013-05-12 11:11 | 雑記